映像というコンテンツが一般人にとって当たり前のものになって久しい。特にそれが象徴的となったのは、東日本大震災の時であった。
何十年か前であればテレビ業界に所属する専門のカメラクルーが、当たり前のように100万円以上するゴツいカメラを抱えてチームを組んで撮影にあたっていたような災害地の映像を、普通の一般人が災害の真っ最中にスマホで撮影を行い、それを即座にyoutubeなどの動画配信サイトへアップロードしたのである。
それらの映像には、専門家であるカメラクルーでは決して撮影できないような映像が映っていた。撮影したのが、災害の被災者当事者だったからである。事が起こってから駆けつけたのではなく、まさにその場にいたその様子が、大量に世界中に配信していたわけだ。
これは、現代の映像ドキュメンタリーのあり方を象徴するような出来事だった。目の前の光景を撮影するというたった一つの行動をとることで、一個人が誰もがドキュメンタリー映像を残し、それを評価の対象とすることができる時代が既に来ているのである。
2013年、カナダの大学生アミ・トンプソンは、卒業制作として "Basilisk" という作品を一人で制作し、youtube上にアップロードした。
このアニメーションは、目の前の光景を撮影するという現代のドキュメンタリー映像とは全く異なった現代の映像のあり方を象徴する作品だ。テクノロジーの進化は、たった一人の人間が自分の想像上の世界を高いクオリティで視覚化し、それに動きを与えることができるところまで進んでいるのである。
伝統的には、人間の想像上の世界は絵画という静止画の世界で表現されていた。古代から現代に至るまで、それは視覚的な表現の中核をなす手法だ。
この場合、その想像上の世界に動きを与えられるかどうかは、鑑賞者の想像力次第となってくる。しかし、この場合は想像上の世界に与えられた「動き」は、厳密には視覚化がされてはいないのである。
そして、100年近く前の撮影技術の急速な発達は、想像力の視覚化に新しい手法をもたらした。例えば、1896年に制作されたジョルジュ・メリエスの "The Haunted Castle" は、当時はまだ新しい技術であった動画撮影のカメラを楽しげなアイデアで使いこなし、編集・合成による想像上の世界の構築を実現している。
そして、絵を動かす「アニメーション」がどんどん制作されるようになった。しかし、フェナキストスコープのような例外を除き、それはほとんどの場合は集団作業による制作が前提となっていた。資金も、時間も、人材の数も数多く揃えることが前提となっていたのである。
しかし、現代のテクノロジーの発達は、資金・時間・人材を大幅に削減することを可能にしたのである。コンピューターとインターネット環境が、多くの手助けをしてくれる。だからもう、他人の資金も、他人の時間も、他人の労働力も奪う必要はない。
今はもう、自分の想像力を視覚化するのに、自分の資金・自分の時間・自分の労働力、全て自分自身の持ちうるものだけで高いクオリティを実現することが可能だ。この "Basilisk" は、その象徴的な作品だといえる。
我々はもう、他人の宝物を奪うことなく、自分の想像上の世界を構築し、視覚化することができる。豊かな世界の源は、自分自身の中に存在する。これから先の表現者に必要なのは、自分自身の想像力という広大な世界を冒険する勇気と、自分自身の中から宝物を掘り起こしていくための継続的な努力と工夫なのである。