消すために、描き続ける物語




19世紀末以降、アートの世界はテクノロジーに大きく影響を受けてきた。

100年前に大きな変化を与えたのは、カメラの発明である。これにより、アートは写実を中心とする表現から、表現者自身の個性を見つめ写実のリアリズムを超えた表現を追求することとなった。

そして、この20年ほどに大きく影響を与えることになったのは、コンピューターとインターネットである。両者が普及することにより、誰でも手軽に制作活動に関わり、自らの手で表現するよりも効率良く見た目の良い表現を作り出せるようになったのである。

そして現在のアートの世界は、制作された作品つまり「モノ」よりも、制作の「コンセプト」や異分野同士の「コラボレーション」、そして「体験」へと中心を移しつつある。

「体験」が重要視される傾向は、まずは音楽で顕著となった。デジタルコピーが可能となってインターネット上にアクセス可能な音源が溢れたことにより、音源のデータを販売するビジネスモデルが早期に崩壊し、ライブやコンサート、グッズを販売することによるビジネスモデルへの変換を余儀なくされたのである。

そして美術の世界にも、その波がやってきている。クセニア・シモノヴァのサンド・アートのスタイルは、その波をと共に、「モノ」としてのアートのあり方の変化を十分に感じさせる。




"Kseniya Simonova - Sand Animation (Україна має талант / Ukraine's Got Talent)" と名付けられたこの動画は、ウクライナ出身のサンド・アーティスト「クセニア・シモノヴァ」のパフォーマンスを記録した映像である。

キャンドルに火を灯すことで、このパフォーマンスは始まる。音楽や効果音の流れとともに、クセニアは大きな画面の上にどんどん砂を撒き、道具を一切使わずに両手で次々と絵を描いていく。

一つの絵は、次の絵に連続的につながるように構成されている。だから、多くのアート作品のように描かれた絵が固定された造形として残っている時間は本当に短く、せいぜい数秒といったところである。

場面は次々と進行し、物語が進んでいく。ナレーションの言葉はわからなくても、それが戦争の悲しさを基本とした物語であることは誰にでもわかる。

そして、クセニアが物語を描き終え、最初に灯したキャンドルを自ら吹き消した時に、その作品は完成する。しかし、最後に残った場面は、消えていったいくつもの場面の重なりの中で構成されてきたものの残像のようなものだ。

クセニアのサンド・アートは、多くのことを考えさせる、非常に興味深い作品だ。

まず、クセニアの作品はその造形が残るものではない。つまり、美術館に飾ることはできないということだ。これは、伝統的な美術の展示のあり方にその限界を突き付けるものである。つまり、美術館というものは、古いタイプの、モノとしてのアート作品しか所蔵する可能性を持っていないということだ。

そして実のところ、誰もクセニアの作品を「直接」見ていない。作品を直接視認しているのは、他ならぬクセニア自身のみであり、作品が制作されている会場で見ている観客は、スクリーンに映された映像を見ているに過ぎないのだ。

そのクセニア自身でさえ、見ているのは、斜め受けからの視点で見ている。この「移りゆく四角い砂の絵画」を絵画と同等に正面から見ることができるのは……遥か天上、真上から見下ろすことができる、神の視点を持ちうるものだけということになる。

私は特定の宗教を信望するものではないのだが、もし天上に神がいるとするならば、人間の営みは、まさにこのサンド・アートのように見えているのではないだろうか。

その存在は脆く、次々と移り変わり、長く残るということはない。描かれた一つ一つの場面に感情や思い入れを抱いても、それはどんどん消えていってしまう。

個性と環境により、誰一人として同じ感覚は持ち得ず、そして、それは価値観というフィルターを通して解釈される。一人一人が異なる印象を持つ「消えて行く絵画」を映像として体験することが、クセニアのアートそのものなのである。

インターネットが普及していくにつれ、世の中の「モノ」の価値がどんどん薄れていっている。大量生産・大量消費の時代はテクノロジーの進歩により「モノ」の数が膨大になったことにより、「モノ」としての価値自体を随分と貶めてしまった。

知識も、資本も、現代社会で大きな力を持ちうるものの大半は、「モノ」から「データ」へ移行してしまったのだ。知識はインターネット上へ蓄積され、常に公開されるようになった。資本もインターネット上へ蓄積され、「所有している証」がある者だけにアクセス権が与えられているに過ぎない。

これからの時代は、紛れもなく「形のないもの」が大きく価値を持つ時代なのだ。

2014年、ウクライナに何が起こったかは、周知の通りである。クセニアの描いた「消えていく絵画」の通りの出来事が、また起こってしまったのだ。そして、そのような重大な出来事さえ、歴史の流れの中では「消えていく絵画」の一場面となってしまうのである。